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【明治維新とは】簡単にわかりやすく解説!!中心人物や幕末からの流れ【まとめ】 | 日本史事典.com

明治維新 (めいじいしん、 英語 : Meiji Restoration )とは、 明治 時代初期の 日本 において 薩長土肥 の四藩中心に行われた 江戸幕府 に対する 倒幕運動 および、それに伴う一連の 近代化 改革 を指す。その範囲は、中央 官制 ・ 法制 ・ 宮廷 ・ 身分制 ・ 地方行政 ・ 金融 ・ 流通 ・ 産業 ・ 経済 ・ 文化 ・ 教育 ・ 外交 ・ 宗教 ・ 思想 政策の改革・近代化などを含む。. 開始時期については諸説あるが、狭義では 明治 改元 に当たる明治元年 旧9月8日 ( 年 10月23日 )となる。しかし、一般的にはその前年に当たる 慶応 3年( 年 )の 大政奉還 、 王政復古 以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については 幕末 の項で扱うものとする)。終了時期についても、 廃藩置県 (明治4年、 年 )、 西南戦争 終結(明治10年、 年 )、 内閣制度 の発足(明治18年、 年 )、立憲体制の確立(明治22年、 年 )までとするなど諸説ある。. この期間の政府(一般的には慶応3年 12月9日 (年 1月3日 )の王政復古以後に成立した政権 [1] )を特に 明治政府 (めいじせいふ)、 新政府 (しんせいふ)、 維新政府 (いしんせいふ)などと呼称することが多い。.

なお、英語表記はMeiji restoration [2] が多く、「明治の(王政)復古」の意味になる。他にMeiji Ishin [3] 、Meiji restoration and revolution [4] などが見られる。.

一般的に、明治維新の始まりは 黒船来航 に象徴される欧米 列強 の経済的・軍事的拡大政策に対する抵抗運動( 攘夷運動 )に起源を持つとされる。. 一方、幕府側の 開国 ・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる 雄藩 を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の 幕藩体制 の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、 京都 を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。そのような風潮の中、 薩英戦争 や 下関戦争 などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内の政治権力の統一や体制改革( 近代化 )を進め、外国との交易によって 富国強兵 を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった 長州藩 も開国論へと転向していくことになった。 イギリス 外交官 アーネスト・サトウ の論文『 英国策論 』の和訳が横浜のジャパン・タイムズに掲載され、天子主権論と 討幕 を理論づけた。ただこの書の内容は、英国留学中の薩摩藩士 松木弘安 が英国の 外務大臣 に提出したものとの類似性が指摘されている [5] 。.

幕府は 公武合体 政策を掲げ、尊王攘夷派の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を模索したため、外国勢力の脅威に直面していた急進的な雄藩の支持を失っていった。またこの時期、黒船来航以来の幕府の威信の低下と世情不安の高まりを背景として 農民一揆 が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する 土佐藩 ・ 越前藩 らの主張( 公議政体論 )や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、国政改革のために幕府を廃して朝廷の下に中央集権的な政治体制を樹立しようとする構想が幕政において急速に支持を集めていった。結果としてこれらの改革勢力の協力の下に 王政復古 が宣言され、 古代 の 律令制 や 中世 の 建武の新政 に中央集権的王権統治の先例を求めつつも、 天皇 が 欧米列強 諸国の君主同様に 近代国家 の 主権者 として統治する体制を採る 明治政府 が誕生した。 戊辰戦争 による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立したこの新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。.

江戸幕府 による大政奉還を受け、 王政復古 によって発足した明治新政府の方針は、 天皇 親政 (旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年( 年 )3月14日に公布された 五箇条の御誓文 で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『 五箇条の御誓文 』の起草者・監修者は「 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 」を全く新たに入れた 総裁 局顧問・ 木戸孝允 ( 長州藩 )であるが、その前段階の『 会盟 』五箇条の起草者は参与・ 福岡孝弟 ( 土佐藩 )であり、更にその前段階の『 議事之体大意 』五箇条の起草者は参与・ 由利公正 ( 越前藩 )である。.

その当時はまだ 戊辰戦争 のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して 明治天皇 が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「 億兆安撫国威宣揚の御宸翰 」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から脱却するように説かれている。. これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には 自由民権運動 の理想とされていく。. また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「 富国強兵 」「 殖産興業 」が頻用された。. 五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の 高札 が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「 五榜の掲示 」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、 キリスト教 の禁止、国外 逃亡 の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策の中で撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。.

そして、明治4年7月の 廃藩置県 の後には 正院 ・ 左院 ・ 右院 による 三院制 が採られた。. 具体的な行政機構としては、 太政官 と 神祇官 を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も 民部省 から 工部省 が分離したり、 刑部省 から 司法省 への改組など幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年( 年 )の 内閣制度 発足をもってようやく安定する。. 明治新政府は、幕府から受け継いだ 天領 と「朝敵」となった諸藩からの没収地に行政官を派遣して直轄地とした。つまり、地方行政としては、徳川家を 駿府藩 に移封し、 京都 ・ 長崎 ・ 函館 を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。.

まず、 明治元年 に 姫路藩 主 酒井忠邦 が 版籍奉還 の 建白書 を提出。続いて明治2年1月20日に 薩摩藩 ・ 長州藩 ・ 土佐藩 ・ 肥前藩 ( 薩長土肥 )の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落迎えると、全藩に版籍奉還を命じた。この 版籍奉還 により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて 知藩事 に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。. しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。明治4年 旧7月14日 (年 8月29日 )に、倒幕の中心であった薩摩・長州藩出身の指導者である大久保利通と 木戸孝允 らにより 廃藩置県 が実施され、 府県 制度となり(当初は3府県、直後に整理され3府72県)、中央政府から 知事 を派遣する制度が実施された。このとき、知藩事たちは東京への居住を義務付けられた。なお、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。.

薩摩藩 の 島津久光 が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が 華族 として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇蹟ともいえる。.

留守政府が行った主な改革としては、 学制改革 、 地租改正 、 徴兵令 、 太陽暦 の採用、司法制度の整備、 断髪令 などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の 征韓論 につながったともいわれる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が 明治六年政変 によって征韓論を退け、さらに大久保の下に 内務省 が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。. 徴兵令を導入し、近代的な 常備軍 を最初に作ろうとしたのは 大村益次郎 であったが、彼が 暗殺 されてしまったため、 山縣有朋 に引き継がれた。明治3年、徴兵規則が作られ、翌年の明治4年に廃藩により 兵部省 が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、 陸軍省 と 海軍省 が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。.

江戸幕府下の 武士 ・ 百姓 ・ 町人 (いわゆる 士農工商 )の別を廃止し、「四民平等」を謳ったが形式的なものに留まった。しかし、明治4年に制定された 戸籍法 に基づき翌年に編纂された 壬申戸籍 では、旧武士階級を 士族 、それ以外を 平民 とし、旧 公家 ・ 大名 や一部僧侶などを新たに 華族 として特権的階級とすると同時に、 宮内省 の支配の下に置くことになった。.

華族と士族には政府から 家禄 が与えられ、明治9年の 秩禄処分 まで支給された。同年、 廃刀令 が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱( 佐賀の乱 、 萩の乱 、 秋月の乱 、 神風連の乱 )につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の 士族反乱 であった 西南戦争 が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。. 維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの 年貢 は収量を基本とする 物納 であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。年には 田畑永代売買禁止令 が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに年に 地租改正条例 が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に 地券 が発行されることとなって、所有する土地に対し 地租 が課せられることとなった。これにより、土地の 所有権 が初めて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有 財産権 が完全に確立することで 資本主義 の発展の基礎条件が成立した。.

富国強兵 ・ 殖産興業 のスローガンの下、 工部省 (のちに内務省)が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。 富岡製糸場 をはじめとする 官営模範工場 が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし西南戦争後の財政難のため、 年 には「官営工場払下概則」が制定され、 造幣局 や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、年ごろから 産業革命 が進行し、 工業化 が進展していくこととなった。. 金融制度でも旧幕府時代の 貨幣制度 を改めて、 通貨単位 として「 円 」を導入(明治4年(年)。 新貨条例 を参照)、また 国立銀行条例 による 国立銀行 (ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する 中央銀行 としての 日本銀行 設立(明治15年、 年 )など、資本主義的金融制度の整備も行われた。.

流通分野では、 年 には 前島密 によって 郵便 制度が創設され、年には 新橋駅 から 横浜駅 間において 日本初の鉄道が開通 し、電信網の整備や船舶運輸(民間の 郵便汽船三菱会社 と国策会社の 共同運輸会社 の競合を経て 日本郵船 会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た 華族 の資産による投資活動も背景にあった。. 幕末 から活発になっていた 佐久間象山 などの「 倫理 を中核とする 実学 」から「 物理 を中核とする実学」への転回が行われ [8] 、 横井小楠 の実学から 物理 を中核とする 福澤諭吉 の 文明 論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、 文明開化 の動きが加速する。. 明治新政府は国民生活と思想の近代化も進め、具体的には、福澤諭吉・ 森有礼 ・ 西周 ・ 西村茂樹 ・ 加藤弘之 らによる 明六社 の結成と『 明六雑誌 』、福沢諭吉の『 学問のすゝめ 』や 中村正直 の『 西国立志編 』『 自由之理 』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また 土佐藩 の自由民権運動の動きと連動して 中江兆民 や 植木枝盛 、 馬場辰猪 といった革新的な勢力と、 佐々木高行 、 元田永孚 、 井上毅 、 品川弥二郎 といった官吏の 保守 的な勢力との対立が鮮明になってきた。.

教育機関の整備では、初めは 大学寮 をモデルにした「学舎制」案を 玉松操 ・ 平田鐵胤 ・ 矢野玄道 ・ 渡辺重石丸 らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の 蘭学塾 や 漢学塾 、それに幕府自身が造った洋学教育機関である 開成所 や 蕃書調所 が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。. 維新まで 松前藩 による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、年にはそれまでの 蝦夷地 から 北海道 と改名し、同年 開拓使 が置かれて、積極的な開発が進められた。 札幌農学校 (現: 北海道大学 )や、 三田育種所 など、各種の学校や研究所が相次いで設置された。このように、ありとあらゆるインフラが整備されていった。.

それまで江戸幕府や寺社が徹底していた 女人禁制 を、「近代国家にとって論外の差別(陋習)の一つである」として太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」によりで禁止した。関所の廃止と合わせ、外国人女性でも自由に旅行できるようになったことから、各地に伝わる日本古来の神事が多数記録されることとなった。. 宗教的には、 祭政一致 の古代に復す改革であったから、 慶応 3年( 年 )旧暦 正月17日 に制定された職制には 神祇 を七科の筆頭に置き、 3月 旧暦 には 神仏習合 を廃する 神仏分離令 が布かれた。そして当時の復古的機運や特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、 仏教 も外来の宗教として激しく排斥する 廃仏毀釈 へと向かった。.

また、キリスト教(耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数人は、 萩 (66人)、 津和野 (28人)、 福山 (20人)に分けて強制的に移住させた。. 慶応4年4月21日、勅命により 湊川神社 に 楠木正成 を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった 新田義貞 、 菊池武時 、 名和長年 、 北畠親房 、 北畠顕家 ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。また、明治元年閏4月には 明治天皇により、大阪裁判所(大阪府の前身)に 豊臣秀吉 を祀る「 豊國神社 」建立の御沙汰があり、年(明治13年)11月 には再建された京都・豊国神社の大阪別社が創建されるなど、江戸時代中に徳川政権によって公には逆賊とされていた 豊臣家 の再評価もなされるようになった。.

明治2年( 年 ) 12月7日 には、キリスト教信者約3,人を、 金沢 以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年( 年 )旧11月、 岩倉具視 特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令、殊に 浦上四番崩れ をはじめとする弾圧が、当時の アメリカ大統領 ユリシーズ・S・グラント 、 イギリス女王 ヴィクトリア 、 デンマーク 王 クリスチャン9世 ら欧州各国から激しい非難を浴び、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年( 年 )に大蔵大輔の職にあった 井上馨 は、 長崎府庁 在任時に関わったことから、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。.

しかし、神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、主にキリシタン弾圧を利用して、神道との関係を改善させる思惑があった仏教をはじめとした宗教界や一般民衆からも「 邪宗門 」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年( 年 ) 2月24日 禁制の 高札 を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。. 法の支配 実現のため、初代 司法卿 江藤新平 が推進した司法制度整備により、いち早く、年に 証書人 、 代書人 、 代言人 が創設された。明治初期の日本は、 不平等条約 撤廃という外交上の目的もあり、 民法 、 刑法 、 商法 などの基本法典を整備し、近代国家としての体裁を整えることが急務であったことから、法学研究目的での海外留学を積極的に推し進めたほか、いわゆる お雇い外国人 として フランス の 法学者 ギュスターヴ・エミール・ボアソナード を起用するなどし、 フランス法 および ドイツ法 を基礎に、日本特有の慣習や国情にも配慮しつつ、法典の整備を進めた。 刑法 は年(明治13年)に制定、2年後に施行され、 民法 は年(明治29年)に制定、年(明治31年)に施行された。日本は、 アジア で初めて近代法の整備に成功した国となり、 不平等条約 の撤廃も実現したが、近年グローバル化の進展の中で、 アジア 各国が日本に 法整備支援 を求めていることには、このような歴史的背景があるともいわれている [9] 。.

新時代「 明治 」の雰囲気が醸成されたことで、 人力車 や馬車、 鉄道 の開通、 シルクハット ・ 燕尾服 ・ 革靴 ・ こうもり傘 などの 洋装 や ザンギリ頭 、 パン ・ 牛乳 ・ 牛鍋 ・ ビール など 洋食 の流行、 ガス灯 の設置や煉瓦造りの西洋建築などが普及していった。. 開国後に大量に入ってきた海外のモノ、概念を取り入れるために様々な 和製漢語 が作られていくことになる。. 自由民権運動 が次第に活発となり、 徳富蘇峰 が 平民主義 と欧化主義を唱え、 民友社 を設立し、『 国民之友 』を創刊し、それに対して 三宅雪嶺 は国粋保存主義を唱えて 政教社 を設立し『 日本人 』を発刊、 志賀重昂 らが参加した。 陸羯南 は 日刊新聞 『 日本 』で 国民主義 を唱え、近代俳句の祖である 正岡子規 らが記者を務めた。.

この『日本』のような新聞が、徐々に様々な人々によって発刊されていくことになる。民間新聞の始めは幕末に創刊された 浜田彦蔵 の『 海外新聞 』であり、 沼間守一 の『 横浜毎日新聞 』、 福地源一郎 の『 東京日日新聞 』、 栗本鋤雲 の『 郵便報知新聞 』、 末広重恭 の『 朝野新聞 』などが続く。. それまでは各藩ごとに独自の教育制度( 藩校 など)があったが地域差が大きかった。また 寺子屋 の数も不十分であり、庶民層が受けられる教育も異なっていたなど身分でも教育の偏りが一部存在していた。. 明治政府では欧米諸国にならい 印章 を廃して 署名 の制度を導入しようと試みたが [10] [11] 、事務の繁雑さの他にも当時の 識字率 の低さを理由に反対意見が相次ぎ断念している。なお年時点でも20歳男子の識字率は 明治政府は日本を強国にするためには、西洋と同じく一般国民に対し全国一律の基礎教育を施す制度が必要との認識に立ち、 義務教育 が開始された。また欧米列強に比類する産業育成のためには高等教育や研究開発が必要となるため、大学も整備された。.

明治になると 女子教育 の必要性も叫ばれるようになった。特に海外渡航の経験があって、欧米の女子教育を目の当たりにした 渋沢栄一 や 伊藤博文 たちは、その必要性を痛感しており、彼らによって 女子教育奨励会 が設立された。同じく女子教育に理解のあった 黒田清隆 は、欧米に10年単位の長期間、留学生を海外に派遣する 岩倉使節団 に、女子留学生も加えさせた。この時の留学生、 永井しげ 、 津田うめ (後に 津田塾大学 の関係者となる)、 大山捨松 は、日本の女子教育に大きな功績を残すこととなる。.

一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。 清 との間には明治4年(年)対等条約である 日清修好条規 が締結される。明治7年( 年 )には台湾における 宮古島民殺害事件 をきっかけに 台湾出兵 が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。. 李氏朝鮮 との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、明治6年( 年 )には政府を二分する論争(いわゆる 征韓論 )となったが、明治8年( 年 )に起きた 江華島事件 を契機として 日朝修好条規 (江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。. 琉球 に対しては、明治5年( 年 )に 琉球藩 を設置し、明治12年( 年 )には 琉球処分 が行われる。.

また、 ロシア帝国 との間では明治8年( 年 )に、 千島樺太交換条約 が締結され、それまで日露雑居地とされた 樺太 および 千島列島 における日露国境が確定した。. 明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は 日清戦争 ・ 日露戦争 における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。 孫文 も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を 犬養毅 へ送っている [12] 。.

ロシアを含むアジアでの近代化革命としては、朝鮮における 壬午事変 ・ 甲申政変 や清における 戊戌の変法 や オスマン帝国 における タンジマート の失敗、長続きしなかった イラン の イラン立憲革命 や ロシア帝国 の ヴィッテ改革 ・ ストルイピン改革 などが典型である(朝鮮の改革運動については 金玉均 など、清の改革については 光緒帝 、 黄遵憲 なども参照)。しかしいずれも確実な成功を収めたものとまではいえなかった。. 一定の成功を収めた例としては、 パラグアイ の カルロス・アントニオ・ロペス 大統領による改革、 タイ の チャクリー改革 、 トルコ の アタテュルク主義 、 エジプト の エジプト革命 、 メキシコ の ベニート・フアレス改革 が挙げられる。.

日本は明治維新によって 列強 と化したことにより、アジア諸国では数少ない 植民地 にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、 帝国主義 的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、 オランダ などのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。.

一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文や スカルノ 、 マハティール・ビン・モハマド や 毛沢東 をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。. 中東社会学者の 山口直彦 は、 エジプト 史での比較を論じている。. エジプトの初代大統領 ナセル は、『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している [13] 。. エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「 有司専制 」などという批判もありつつも、議会や民権政党、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破綻と植民地化を招いたことが指摘されている [13] 。.

一方 エジプト革命 から半世紀以上前に オラービー革命 を起こした アフマド・オラービー は、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は 生糸 しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場である 清 の付属品、あるいは 太平洋 進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、 スエズ運河 を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという [14] 。.

昭和期の代表的な維新論として、 日本資本主義論争 がある [15] 。 日本共産党 の活動方針を巡って 講座派 と 労農派 はそれぞれ 二段階革命論 、 一段階革命論 を唱えた。労農派は明治維新により日本は 資本主義 段階に突入したと考え、 マルクス主義 の 唯物史観 の公式通りただちに 社会主義革命 を目指すべきだと主張したのに対して、講座派は明治維新は不完全な 民主主義 革命であり、日本は未だ半 封建 的な段階にあるとし、まず ブルジョワ 民主主義 革命を目指し、その先に社会主義革命はあるという二段階革命論を主張した。 山田盛太郎 の理論のもと、『 日本資本主義発達史講座 』( 岩波書店 )により、 野呂栄太郎 、 服部之総 、 羽仁五郎 らは活発に議論を交わしたが、 特別高等警察 による野呂栄太郎の拷問死、 コム・アカデミー事件 での一斉検挙により壊滅した。. 終戦後講座派は復活し、羽仁五郎は『明治維新』(岩波新書)、『明治維新之研究』(岩波書店)を刊行した。その後、 マルクス主義歴史学 の立場の 遠山茂樹 『明治維新』(岩波書店)が標準的な通史の地位を得た。.

マリウス・バーサス・ジャンセン は『坂本龍馬と明治維新』()で 坂本龍馬 が果たした役割を取り上げ、それは 司馬遼太郎 に大きな影響を与え、『 竜馬がゆく 』などの 歴史小説 は広く国民に読まれた。. 薩長土肥 中心に語られてきた明治維新を批判する立場として、 会津藩 や 奥羽越列藩同盟 など敗者の側に注目する見方もある。古くは 石光真人 編 『ある明治人の記録-会津人 柴五郎 の遺書』(, 改版)があり、近年では 星亮一 の研究や、 原田伊織 『明治維新という過ち』()などがそれである。 NHK大河ドラマ 『 八重の桜 』()では、会津藩が舞台となり、 会津戦争 の様子も描かれている。.

明治維新周年を記念して 年 から 年 にかけて多くの研究書や一般書が上梓された。歴史学者の著作としては、 三谷博 『維新史再考』、 三谷太一郎 『日本の近代とは何であったか』、 北岡伸一 『明治維新の意味』()などがある。 苅部直 『「維新革命」への道』は明治維新を 文明開化 と捉える見方を批判し、 江戸時代 からの連続を説いている。明治維新記念ムードの中、 斎藤貴男 『明治礼賛の正体』は政府主導の記念行事に対して政府礼賛に繋げようとしているのではないかと疑念を表明している。 山本義隆 『近代日本年』()は「 科学技術 総力戦 」に突き動かされる日本社会という角度から日本の近代を論じている。 子安宣邦 『「維新」的近代の幻想』()は明治維新に端を発する日本近代のあり方を批判している。. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. この記事には 参考文献 や 外部リンク の一覧が含まれていますが、 脚注 による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です 。適切な位置に脚注を追加して、記事の 信頼性向上 にご協力ください。 ( 年1月 ).

詳細は「 五箇条の御誓文 」を参照. Discuss Japan-Japan Foreign Policy Forum. 近代 日本の経済史 ( 戦前 ・ 戦中 ・ 明治 時代 - 昭和 時代前期). 明治維新 富国強兵 殖産興業 戊辰戦争 地租改正 国立銀行条例 新貨条例 大不況 大隈財政 西南戦争 明治十四年の政変 松方デフレ 産業革命 日清戦争 金本位制 貨幣法 日露戦争. 第一次世界大戦 大戦景気 戦後恐慌 震災恐慌 金融恐慌 世界恐慌 昭和恐慌 農業 金解禁 重要産業統制法 満州事変 高橋財政 時局匡救事業 日中戦争 第二次世界大戦 国家総動員法 大日本産業報国会. 典拠管理 GND : LCCN : sh MA : NDL : カテゴリ : 明治維新 19世紀の日本の設立. 隠しカテゴリ: ISBNマジックリンクを使用しているページ 参照方法 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 MA識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事. 案内メニュー 個人用ツール ログインしていません トーク 投稿記録 アカウント作成 ログイン.

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